起こる事は、必然であり、意味がある

私は、起こる全ての事には意味があると思っています。

もっと言えば、人生で起こる事は「必然」だと思っています。

だとすると、主人と出会ったのも必然。今の自分を取り巻く現状も必然だと思っています。例え、自分に不利な状況に思える現状だとしても。必然だと、そして意味が必ずあると思っています。

 

反対の意味に当たる「偶然」と何故思わないか・・・。それは、偶然と言うのは、自分にはどうする事も出来ない・・・なんなら「自分以外のせい」に簡単に出来るからです。

 

折角の一度きりの人生を、誰か(何か)のせいにして、勿体ない時間を費やしたくないのです。

 

周囲のせい、政治のせい、とか、環境のせいとか、誰々のせいとか・・・自分以外の所に理由を持たせた場合、どうする事も出来なくなります。環境も変えられませんし、周囲を変える影響力があればいいですが殆どの人はそんな力ありませんし、政治を変えるなんて例え相当な力があってもすぐ変えられる訳ではありません。

そして、そんな力なんて私はありません。

誰々のせいだと思っても、他人を変える事なんて限りなく不可能に近いのです。

 

自分以外の所へ理由や意味を持たせた先は、どうにもならない事に憂い、怒り・・・嘆き・・・そして、それは必ずと言っていい程「文句」を生みます。

 

私は、人生と言う限りある時間を折角歩くのに、そんな大切な時間を「文句」に使うのは勿体ないと思っています。

 

「必然」へと考えを変える事は、「自分のせい」にする事と同じだと思っています。

自分のせいなのだから、変えられます。現状を変えるのではなくて、感じ方を変える事が出来るのです。

(今の現状を前に)

自分はどうしたいのか・・・どうなる事を望むのか考える。

 

では、何故望む現状になっていないのか。

 

→自分に出来る事をせずに、相手に求めてはいないか。

 

→相手に求めてもいいけれども、そう思っている(望んでいる)事は、相手にちゃんと伝わっているか。

→そして、伝える努力はしたのか。

 

していないのであれば、その現状は「必然」です。

 

問題に蓋をせず、一つ一つ、「自分はどうしたいのか」と考え、答えを出し、行動する。

自分がそうしたいと思って行動した結果が例え上手く行かなくても、それは「文句」にはならず、次はどうしたらいいかと次の方法を模索します。

だって「自分がそうしたい」と思って進んだのですから。

 

もしも、相手の事を思って自分のしたいを変えたとします。

相手を思って、自分がそうしたかったのです。

 

何処まで行っても、自分の考えで動いているのです。何をしても、何を考えても、全部自分発信なのです。そして、得た結果を受け止める。受け止めてまた行動する。

 

もしも結果が思うようにならなければ、それは間違ったのではなく「この方法は違う」事を知っただけなのです。違ったのですから、次次と方法を変えて成功へと歩けます。

 

でも、「文句」はどうでしょうか?「文句」を言ってる人が近くに居たらよく学べます。その人は全力で文句を言います。

「ねっ、そうあなたも思うでしょう?私は間違っていないでしょう?」といった感じでしょう。

全身全霊をかけて、正当化し、そして、「同調仲間」を一人でも多く募ります。

これは、必須項目です。だって相手が悪いのですから。自分は正しいのですから。

1人また1人と、もれなく同じ事を何人にも同じ熱量で言い続けられます。

それはもう、全身全霊です。

そうして、「文句」から「正当な言い分」へと見栄えをよくし、あたかも凄い武器を手にしたかのように投げつける時期を伺っています。準備出来たら、やっていきます。

 

ここまでがセットです。

 

どれだけの時間を費やしたでしょうか。それは1日2日?いやいや、広げる人数に比例して日数は延びるでしょう。

 

時間の経過を分かりやすく伝える為に高校野球を例えにしますね。

 

レギュラーから外れた2人の選手(A選手とB選手)が居ました。

 

A選手は、頑張ったのは明らかだと自負し、今回の結果は監督に好かれていないからだと確信しています。好き嫌いはどうする事も出来ないから自分のせいではないと、仕方ないと諦めます。諦めたと思っても、諦められないのが人の心です。その悔しさ悲しさが怒りへと変わるのにあまり時間はかからないでしょう。その怒りは「文句」となって溢れ、親へ伝え、周囲の仲間に愚痴を投げつける。親もまた思いをリレーのバトンのように次々へと渡す事に全力を尽くす。

「あの監督がさ~~」などと、自分の考えと思いを存分に乗っけて。

A選手も、その大会が終わるまでイライラ、モヤモヤが収まる事はなく、ふてくされる。あから様にやる気を失った行動になる子も多くいます。(実際に見て来ました)

 

「文句」で心が溢れた選手が、次に取る行動は何でしょうか・・・。

※その答えは後程・・・

 

次にB選手。

今回のレギュラー落ちの結果を自分に置き、自分を見つめます。

本当に出来る事全てやったのか?監督に選ばれなかった理由は・・・何処か見落としは無いのか?

自問自答をします。監督に間違いはないと断定しています。間違いは自分にあると。

 

そうして考える事、最短で1分・・・例え考えが定まらず時間がかかったとしても1日あれば答えは出ます。「必要な努力が足りない」と。そして、自主練もしてきたのなら、必ず仕方が間違っています。方法の見直しをします。

 

方法が決まれば、する事は明確です。

練習です。

それも、みんなと同じ時間したって駄目だと、みんなが帰った後、誰よりもバットを振ります。

 

これが「差」です。

A選手がモヤモヤと文句に時間を割いている時に、同じ結果を貰ったB選手は既に前向きに練習が出来るのです。1日60分だとして、それが1週間で7時間。

その差は決して埋まりません。断定します。

 

何故なら、その機会は幾度と来るからです。結果を「人のせい」にしている内は、幾度と幾度と来ます。その度に、また差が開くのです。

 

高校野球で、それは致命傷です。3年間・・・正確には2年間しかないのです。その差の大きさを知っている人は確実に時間を味方につけます。

慣れあいでしてないからです。9席の奪い合いなのです。「文句」に時間を割いて、落ちていく人を救ったりしません。自分で這い上がれないなら、置いていくのです。

9席しかないのですから。

本当に厳しい世界だからこそ、少しと思える差は、実は思っている以上に空いています。

 

そして、この「人のせい」は、たばこやお酒のように「中毒性」があるのです。「人のせい」にしてしまうと、余りの楽さ簡単さに、簡単に戻ってなんて来れません。

 

だからこそ、しっかりと考える必要があると思っています。

知らず知らずに大事な時間を、限りある大切な時間を「文句」を言う時間に使っていませんか?